行政書士&中小企業診断士 櫻井義之のブログ

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わたしと英語

「わたしと英語」の関わりについてだらだらと書いてみます。

 

遠い昔ですが、中学から高校時代は英語が大嫌いでした。数学、化学、地学、歴史、社会、地理などが好きでしたが、「英語は学問ではない」という信念を持って、意識的にさぼっていたという感じでした。

 

そんな信念はどこからきたかというと、中学時代の英語授業の質だと覚えています。「文法や単語を覚えるだけ」「まともな発音を聞いたことがない」「話さない(使わない)言語」の繰り返し。時間をかけて辞書で調べて意味がわかったとしても、くだらない内容ばかり。いざ、英会話の初歩に首を突っ込んでも、あいさつだけの不自然な会話をバカにしていました。

 

そういう英語に対して不真面目な私が高校時代に進路を考えていた時、複数の友人たちが「お前は英語が嫌いなんやから、文系はやめとけ、理系にせい」と無責任なアドバイスを何度も聞きました。 入学試験での英語のウエイトが高い文系を避けて、理系に進んだ方が良いという理由です。深く物事を考えることができない高校生だった私は素直に従いました。

 

工学部電気工学科に進学した私は、大学での電気工学の難しさに戸惑い、逃げて、遊びだらけの学生時代を過ごしてしまいました。 まったく英語と無縁の生活になったのは良かったのですが、大学3年の夏休みにアメリ東海岸へ2か月間のぶらぶら旅行をした時、はじめて英語によるコミュニケーションの面白さを感じたことがありました。まだ日本人が珍しかった東海岸の小さな町のライブハウスなど若者が集まるところで遊んでいただけです。 当時、日本ではメジャーなゲーム機がアメリカで出始めたばかりだったので、ドンキーコングとかなんとかギャラクシーなどのゲーム機のトップ10を「Yoshi」で総なめしていました。ゲームをしながら周りに人が集まり、気づいたらあぶなそうな黒人やかわいい女の子が周りを取り囲んでいてワーワーギャーギャーうるさい。皆から「Yoshi」と呼ばれて、クオーターを入れるからもう一度やって見せろと催促されたり、そのまま飲んで過ごし仲良しになれたのが面白かったですね。当時のゲーム機はジョイスティックとボタンの位置が日本と左右逆だったので、右手と左手をクロスさせてやっていたのですが、あぶなそうな黒人たちが私の真似をして手をクロスさせてゲームをやっていました。

 

その後、工学部を無事に卒業し東京本社の電機メーカーに就職したのですが、工場勤めではなく、東京本社で営業やマーケテイングをしたいというわがままな希望を出した結果、配属されたのが海外営業本部。「なんじゃそれは?」 配属初日、会議があるから出席しろと指示されたところ、アメリカ人数人がやってきて、工場側の偉い人含めて20人くらいの大会議。まったく何を話し合っているのかわからないし、挨拶程度だけで何も発言しないまま小さくなって一日が過ぎたその翌日、「議事録は午前中に関係者へ回すように」という指令。「なんじゃそりゃ?」 ただの新人いびりでしたが、英語嫌いが英語恐怖症へ変化してしまいました。

 

1980年代中頃の当時は、プラザ合意後の急激な円高日本製品の価格競争力が落ちて、海外生産移管が進む中、台湾の工場へ毎月のように出張しながら、新製品の開発と売り込み、受注から生産手配、出荷・船積手配、入金フォローなど、朝から夜遅くまでよく働きました。 パソコンはまだ数人に一台の時代で、タイプライターで英文を打って、FAXするというやり方が基本でした。 先輩社員にはマシンガンのような音をたててタイプを打つ人がいるのに、私は指3本くらいしか使えないので、時間がかかるし、間違えるし、困ったものでした。 いつしか書類のほとんどは英語だらけ。 外国人から電話がかかってきたら大変。 FAXのやりとりだと辞書をひきながら解読できても、電話で話されては簡単な単語も聞き取れない、言い返せない。 わざわざ電話してくるのはクレームや急ぎの内容が多く、冷や汗ものでした。一応、家の近所の英会話スクールに週二も通って努力をしてみたこともありましたが、慣れてきたら、どうやって人を笑わせるかの冗談話ばかりの英会話教室になっていました。

 

1990年代に入ると、英語恐怖症を感じる余裕がないほど仕事に没頭していたように覚えています。 この頃になると、自分で戦略を考えて、関係部署と交渉・調整し、計画を立て、自ら売り込むという新規事業開発、新商品開発などを担当していたら、アメリカ駐在が決定。 売上ゼロからはじめた新事業は最初の1年間は大変でした。 アメリカ主要都市を毎月飛び回り、主要空港とその近くのホテル、顧客訪問や展示会などで忙しかったです。気づくと、毎日ほとんどの会話は英語、当時のパソコンは英語Windowsで日本語入力がなかったです。とうとう英語で喧嘩もできるようになっていました。

 

アメリカのどこに住んだかというと、最初はジョージア州アトランタ(南北戦争の南軍の首都)、その後カリフォルニア州シリコンバレーやメキシコ国境近くのサンデイエゴにも住んだことがあります。休みの時はゴルフばかり、特にカリフォルニアは年間350日以上が気温20度前後の快晴。 二度のアメリカ駐在を終えて日本に戻ってきたのが2007年。 一時はこのままアメリカで過ごそうかと思っていましたが、日本社会に復帰するのに半年くらい時間が掛かった気がします。その後本社スタッフの企画部門にどっぷり、英語を使わない日々が続くと、多くの英単語や英語の言い回しを忘れてしまいました。 3か月前に、英語のサイトを作りましたが、言葉がでてこないことにおどろきました。

 

ただ、テレビなどに出てくるトランプ大統領の英語は聞きやすい。ああいう単純明快な単語を使う頑固そうなアメリカ人と仕事のおつきあいしていたのだろうと思います。

 

結局、「英語は学校で学ぶ学問ではない」という信念は変わりません。 コミュニケーションの一手段であり、ジェスチャーや表情など身体全体で表現し、コミュニケーションが成立すれば英語を話すことになるのでしょう。 ただ自分の意志が伝わる・言っていることを理解することを超えて、英語を話す人たちの様々な文化や考え方を理解し、情が通い、人間関係が広がり豊かになることに繋がるので、英語を勉強することは良いことだと思います。 ただ最強のコミュニケーション手段は笑顔と、相手を笑わせることだと思います。

 

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